
木田広大
晴天のへきれき。
小学5年生までの私は、絵に描いたような優等生でした。成績は、常にトップクラス。毎年、学級委員に選ばれ、尊敬する父の背中を追いかけていました。これが、私にとっての日常でした。しかし、その、日常は、ある日、音を立てて崩れ去ったのです。
父が病に倒れて長期入院。その後、職場復帰した矢先にリストラ。それまで社会保険労務士だった父は、家族を守るためにトラック運転手に転身。車両の一部を破損させてしまい賠償責任を負い、再び失業。かつての威厳は消え、働く意欲を失い、やがて、生活困窮するようになりました。専業主婦だった母が、パートをいくつも掛け持ち。家からは、おやつがなくなり、おかずがなくなり、果物が消えていきました。
トマトは果物。
母は、家ではいつも笑顔を振りまいていました。「果物が食べたい」と言う私に、「はい、果物」と、母はトマトを差し出しました。「野菜じゃなくて果物が食べたい」と言う私に「トマトは立派な果物」と言い張る母。「これは野菜でしょ、果物がいい」と言い返す私。押し問答は続き、やがて、母は私の怒る顔を真似し出し、いつのまにか「にらめっこ大会」が始まります。
底抜けに明るく、天然キャラを誇る母。どんな苦難をも笑顔に変えてしまう天才でした。そんな母の姿を、私はずっと見てきました。一方で、勉強して、いい大学に入り、いい会社に入る。そんな人生に、一体何の意味があるのだろう。そんな風に考えるようになり、私は勉強意欲をすっかり失っていきました。
一番稼げる職。
一日も早く社会に出て稼ぎたい。そんなことばかりを考えるようになりました。
学校で「将来の仕事」について考える授業があり、私は先生に「一番稼げる職業は何ですか」と尋ねました。返ってきた答えは、「漫画家」でした。当時、お金持ちの年収を公開する「長者番付」というランキングがあり、「漫画家 年収5億円」の報道が世間に衝撃を与えたことがありました。それまでのお金持ちといえば、経営者や有名人、スポーツ選手だった時代に、ひとりの若手漫画家が億超えの年収を達成し一躍スターになったのです。
学歴も年齢も関係なく、実力一本で大金を稼ぎ出す漫画家の職に憧れ、私は独学で漫画を描き始めました。来る日も来る日も、家族を救いたい一心でペンを握り続け、指にはペンだこができました。そして、中学2年生のとき、大きなチャンスをつかみます。漫画コンクールで、最年少の14才で入賞を果たしたのです。
甘い誘い文句。
受賞を知ったある会社から電話があり、親子で都内のオフィスへ招かれました。「お子さんは天才です」という称賛の言葉に母と私は舞い上がりました。「漫画家としてプロを目指すなら、今のうちから画力を伸ばした方がいい」と口々に大人たちは言いました。しかし、それは、甘い誘い文句でもありました。
母は、私の画力を伸ばそうと、家計が苦しいにもかかわらず高額な美術教材のローン契約を結んでしまったのです。それが皮肉にも、私が「美術」の世界を知る入口となり、グラフィックデザインに目覚めるきっかけとなりました。しかし、いざ美大を目指そうとした瞬間、現実に打ちのめされました。高額な学費、浪人必至の倍率。家計にそんな余裕はなく、自分のデッサン力の疑念もぬぐえませんでした。
広告の世界へ。
結局、いくつもの言い訳を作って、美大受験から逃げ出しました。そして「入りたい大学」ではなく「入れる大学」に進みました。偶然にもそこで出会った広告研究サークルが、私の運命を変えました。広告のデザインを知り、広告業界を志すようになったのです。しかし、現実はそう甘くはありません。インターネットも人脈もなかった当時、思うように就活が進まず苦境に立たされます。わらにもすがる思いで一社の広告代理店の内定が決まり入社することができました。
ところが、私の配属先は、毎月100件の飛び込み営業を求める部署だったのです。部長の口癖は「100件でダメなら1000件行け」。飛び込み営業は、アポ無しで突然会社を訪問する行為。どんなに嫌がられ迷惑がられても、私には、会社を辞めるわけにはいかない理由がありました。
扶養家族。
両親を扶養していたこともあり、一人前になって、家族を支えると決めていたのです。
ある日、小さなご縁をきっかけに、通販会社から広告の注文をいただくことができました。喜びも束の間、商品が売れず、広告は大失敗となって終わりました。私は、どうして売れなかったのかを考えました。しかし、考えをまとめることも、企画書を書くこともできませんでした。
企画書が書けるようになりたい。という思いは日増しに大きくなり、3年が過ぎようとしていた頃、会社を辞める決意をし、これまでコツコツと貯めてきた貯金を全額下ろし、マーケティングスクールとコピー学校へ進みました。そして、コピーライターとして再出発。経験不足を埋めるように、どんなに厳しい条件下の仕事も、積極的に引き受けていきました。
金賞を受賞。
やがて転機が訪れます。企画コンペに勝利しキャンペーンが成功、商品が大ヒットしたのです。ここから、私に、指名の仕事がどんどん舞い込むようになりました。広告業界誌のコピー賞では、4万5千通の応募の中からベスト4に選ばれました。勢いに乗ってフリーランスとなり、広告代理店との仕事が始まりました。
そうしたご縁から総合広告代理店への転職が決まり、そこからますますチャンスが広がり、毎年のように広告賞を受賞するようになっていきました。広告のアジア大会では、バイラルマーケティング部門で日本初の金賞を受賞。翌年には、国際審査員として招待され、眩しいほどの光の中に私はいました。結婚し子どもを授かり、すべてが順風満帆でした。
ブームの裏側。
私の専門分野だったバイラルマーケティングは、SNSの口コミを巧みに活用するもので、テレビCM主体の広告に比べて、はるかに低予算で、なおかつ、広告効果を最大化させることができる技法として注目を集めました。海外でもブームとなり、その波が日本へと押し寄せはじめ、大注目の革新的な分野になっていきました。ところが、テレビCMのメディア枠の販売収益を主体とする総合広告代理店にとって、必ずしも歓迎されるものではありませんでした。期待が高まる陰で、社内のあつれきはどんどんと高まり、次第に私は居場所がなくなり、自ら会社を去る決意をすることになりました。
仕事と家庭。
次に向かったクリエイティブスタジオでは温かく迎えられ、チーフ、取締役、やがて、副社長という大役を任されるようになりました。会社は急成長を目指し「これから」という矢先、私はシングルファザーとなり会社と家庭の板挟みになりました。会社で私の代わりはいても、子どもたちの代わりはいない。そう考え、私は副社長を辞任しました。
育児を優先し、家の近くで職を得るため、ハローワークへ向かいましたが、私の職はありませんでした。任期の途中で早々と副社長を辞めた行為は、社会から厳しいレッテルを貼られることとなったのです。貯金はみるみるなくなり、絶望のふちに立たされました。

トビウオ。
ふと、一匹のトビウオのイメージが浮かびました。トビウオは、海の中では常に捕食者に狙われる弱き存在です。大きな魚に追われ、ひたすら海を逃げ回り、もうどこにも逃げ場がないとなったその時、トビウオは海面を思い切り蹴り上げ、海から飛び出します。その飛距離は驚異的で、100メートル、時には、風に乗って300メートル先まで飛ぶことがあるそうです。海の天敵も、さすがに空までは追ってこられません。トビウオはジャンプによって、初めて自分を縛っていた海の世界から解き放たれ、新たな空の世界を手に入れることができるのです。
売上3万円。
私は気づきました。入れてもらえる会社がないなら自分でやればいい。視点を変える、発想転換に目覚めたのです。そうして私は、アングルシフトとして独立を決意します。月の売上は3万円。生活できるレベルではありませんでしたが、私にとっては、かけがえのない、記念すべき初売上となりました。そこから、仕事に没頭し、どんな無理難題も頼まれたからにはやり遂げる覚悟で臨みました。しかし、ある時ふと、考えます。自分の存在意義はなんだろう。一体どこへ向かおうとしているのだろう。自分の胸に、そう問いかけました。
私の理念。
私は、アングルシフトという旗を掲げて突き進んでいます。行き止まりと思えた壁さえも、視点を変えれば空へと続く道へと変わります。自らの発想転換で、絶望をも希望に変えていくと覚悟を決めたのです。どんなに激しい豪雨の中でも、雲の上にはいつも青空が広がっています。暗闇も見上げれば、頭上には満天の星空が輝いています。視点を変えると、世界が変わる。いつしかこれが、私の、基本理念になりました。
3つの宣言。
最後に、私の、アングルシフトとしての宣言として、MVP(ミッション、ビジョン、フィロソフィー)を書き記しておきます。
MISSION
発想転換。
VISION
アイデアあふれる
社会をつくる。
PHILOSOPHY
視点を変えると、
世界が変わる。
